「気まぐれに、何処までゆこうか。我が守護の子よ」 


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 綾瀬。その家は、遥か古来より山神の守護を受けてきた。
 深く茂る木々の合間に棲む、人知を超えた力を持つ山神。彼らはその守護を受け続けるために様々なものを捧げ、その地域を統べる力を手に入れた。
 山神への感謝。そして、この栄光が途切れることがないようにという願い。一族の者はある儀式を重んじてきた。男子なら五つ、女子ならば七つを数える日に、一人で山神の社へ赴く。そして、山神に自らの名を告げ、乞い願うのだ。
『我が命続く限り、御前の望むままに全てを捧ぐことを誓う。御前の一族を守り、時に救いたまえ』
 だが、これはあくまでも古き時代のこと。現代ではただの形式、伝統の一つでしかない。
 遥か昔は、儀式に山神が姿を現したといわれる。山へ入り、泣きながら帰ってきた子供達は、それぞれが自らの遭遇した人外の者を語った。
 形なき光、妖艶な美女、年端もいかぬ童。巨大な鹿であったり、大蛇であったり、平に治まる白鼠であったり……。
 どれが山神か。本当の姿の知れないままに、ある時突然山神は姿を見せなくなってしまった。理由など分からなかった。
 それ以来、これは子供の健やかな成長を願う儀式に変わり果てた。何度か不思議なことも起こったが、山神を昔話にしてしまった一族の者は、取り合おうとはしなかった。
 その日も、綾瀬の次男が五つの誕生日をむかえ、山神がいるとされた森へ入れられた。年端もいかない子供は、儀式用に仕立てられた羽織袴姿で消えていった。
 兄のように冷静ではなく、かといって活発で陽気な子とはいえない彼。両親は無事に帰れるか心配していたが、他の子供の場合より時間をかけて彼は戻ってきた。そう、三日の後に一つの手土産を持って。
 彼が首に下げて持ち帰ったもの。語って聞かせた話。それを一族の大人達は、一様に気味悪がった。山神を信じなくなった一族の者は、不思議なことが起こると神の仕業と恐れるのではなく、逆に「普段と違う」縁起の悪い事と扱った。
 少年と呼ぶに相応しかった綾瀬稔は、この日から一族の浮き出た存在となってしまった。本家の長子である兄に見下され、親からの扱いも変わった。まるで一線を引かれたかのように。
 稔は、自分の立場を大きく変えたソレを部屋の引き出しにしまい込み、その日にあった出来事を、記憶を封印した。
 時が経つと共に、稔を気味悪がる者は減った。しかし、家を継ぐ義務のない彼は、「働きに出る」と言い節目に家を離れた。
 稔のどこかに、まだあの出来事が傷として残っていたのかもしれない。自分は当事者であるがために、アレを信じるしかなかったが、周囲からは認められない。居づらかったのだろう。
 一族の者は彼を止めず、好きに生きるように言った。だが、追い出されるのではなく、自らが選んだ静かな旅立ちだったといえる。
 稔の自立は同時に、長きに渡って綾瀬を守ってきた山神の守護が、終わりを告げたことを意味していた。無論、信仰の消えた一族がそれを知るはずはない。

−「気まぐれに、何処までゆこうか。我が守護の子よ」−

「……っ」
「怯えずともよい。喰らうつもりはないからのぅ。……童、名は何と?」
「あ、やせ、みのる……」
 薄暗い木々の合間、少年が一人で辺りを忙しなく見回していた。だが唐突に、怯えた瞳は一点に注がれた。何かが動いたのだ。
 落ち着いた、重みのある声が木の葉の囁きを鎮める。風さえが息を殺す中、木の枝が折れる軽い音と共に巨大な影が姿を現した。
 少年はその大きさに気圧された。蛇に睨まれた蛙のように、身動き一つ出来ないまま、やっとの思いで声を出す。
 震える声に耳が動いた。獣のそれとは思えない、深い知性を湛えた黄金の瞳が静かに瞬く。
「そうか、四つ年前にも綾瀬の者が顔を見せにきたが……アレは本家の長子。その四つ年後ということは、弟の方か。生を受け五つ年、あの小さな赤子が……大きくなったものじゃ」
 枯れ葉を踏み締める音。大きな黒く艶やかな鼻に続き、三角のふさふさした耳、しなやかな体と機嫌よく左右に振れる太い尾が現れた。柔らかそうな黒い毛並みは進むごとに赤へと変わり、かと思うと黒へ戻ってゆく。
 品定めするかのように、珍しいものを見るように、巨大な狼が鼻をひくつかせた。仰々しく煌びやかな服に包まれた身体を、ぴたりと強張らせて少年立ち尽くした。彼には目の前にいるものが何か分からない。ただ怯えるばかりだ。
「山神に用があるのじゃろぅ? 言うてみるがよい」
「山神、様……? そうだっ、『やしろ』にお願いするのっ」
 やらねばならないことを相手に示され、少年、稔はほんの少し元気を取り戻す。
 人語を理解し口にする巨狼。固定概念の薄い子供はすんなりとそれを受け入れた。敵意を見せない狼に恐れは消える。
「おっきなワンちゃんっ。『やしろ』ってどこっ?」
 稔少年の発言に黒狼は言葉を失う。大きな耳がピクリと動き、揺れていた尾は止まる。知性の光を湛えていた金色の瞳は呆れを宿した。
 何か不満を現すように、三角の耳が横に折れる。
「社はこのまま真直ぐに行けば良いが……。稔よ、わしを何だと思ぅておるのじゃ?」
「……?」
 稔を二人重ねたほどある高さから、首を下ろして狼は視線を合わせる。黄金と黒の出会い。疑問符を詰め込んだまま、稔は首を傾げた。
 巨狼は溜め息を零す。少年の胴より太い脚がしなやかに動き、稔の周りを一周して背後に回る。黒い毛並みの柱に囲まれ、きょとんと稔は固まる。
 このままこの狼が野生の血のままに肉を欲すれば、稔の頭など簡単に銜えられ噛み砕かれるだろう。鋭い爪も、細いやわな体を引き裂くに余る力を持っている。
 少年の顔の横で薄く開かれた、刃の鋭さがずらりと並ぶ大きな口。これも大人なら恐れ戦くのだろうが、子供には生々しいものは想像できない。ただ、その大きさに驚くだけだ。
 巨狼はそこから、落ち着いた声で自らの名を紡ぎ出した。
「山神はわしじゃ。名を日狼(かろう)という」
 少年は数秒置いて、この獣の言葉を理解する。とっさのことにどう反応すべきか迷い、結果、稔は黄金の瞳から逃れようとでもするように数歩退いた。
 怖いというのではない。探しに来た物の主が目の前にいることで戸惑っている。
 子供の様子に狼の瞳は悪戯な輝きを見せる。そして、獲物を逃がすまいと太い尾が大きく揺れ、稔の背を叩いた。さがる足が止まる。
「さて、どうしてくれようか。高慢な人間共はわしの守護を受け続けるも当然と考えるようになりおった。姿なきを信じぬあれらには嫌気が差してきたが……」
 唐突に言葉を切り、巨狼は地を蹴った。鮮やかな銀杏の黄に、光を吸った不思議な黒から赤への体色が映える。
稔の背からしなやかに前へ跳んだ狼は、その身を反転させると少年に向き合った。柔らかな毛がふわりとなびき、枯れ葉が舞う。
 美しい一枚の絵から狼は一息に抜け出す。無音の中、正面から白銀の牙が稔に迫った。
「綾瀬の守護はこれで終いじゃ。悪いのぅ稔」
 静かな低い声。少年の引きつった声は喉の奥に消えた。

(ま〜た懐かしいものを……。ずっと忘れたまんまだったのに、何で今になって?)
 朝日に白く透けたカーテン。仰向けのまま彼は目覚め、板張りの天井をぼんやりと見上げる。
 ソファで寝たせいか、起き上がろうと体を動かしただけでバキボキと音が鳴る。ついでに、髪を掻きむしるバリボリという音が重なる。
 綾瀬稔。彼は家を出た後、この国の治安を守るという巨大組織の、どうでもいい雑用係をやっていた。
 書類整理のようなものではなく、現場で走り回る雑用。巨大組織の末端だ。お偉い人間は現場には立ちたがらない。代わりに、稔のような者が毎日命を張った仕事ばかりをやっている。
 その巨大組織。警察といえば聞こえは大分いいが、中を知った稔にとって、その響きは詐欺師の囁きにしか聞こえない。世界は富を持つ者と持たない者に二分化され、富を持つ者に媚びる機能しかない。それが治安を守るなどと言っている。夢も希望もない。
 富を持つ者が住む場所はそれなりに統括がなされており、平和と呼べる世界だった。だが、全ての悪が掃き集められた地域、裏町の治安は酷かった。
 人間がまるでごみのように、道端に転がっている。店先には当たり前のように非合法の品が並んでいる。
 そんな中を、正義だのなんだの言いながら歩き回るのだ。邪魔者扱いは必須だろう。世間への不満をぶつける対象としてはカンペキだった。上の人間は下の者を手駒として扱い、下の者は生活のため、金欲しさに命の危険も顧みない。
 始めはこんな生き方はあんまりだと考えていたが、面白くもない人生は早く終わらせたいと、いつからか命の安売りをしていた。同じつまらないなら、走り回ってつまらないことさえ忘れるほど忙しく生きたい。
 実家は裕福な方で、継ぐことは出来ないが、いればそれなりの生活が出来ただろう。だが、そこには居場所がなかった。だから、この生き方はある意味必然だったのかもしれない。たとえ、理由が自分への諦めだったとしても、必然だった。
 家を出て今年で五年になる。子供の頃の夢を見る時期なのだろうか。同じものを見るのはこの日で三日目だ。そろそろ気味が悪くなってくる。
 綾瀬の家だけでなく、世間というは目に見えないものを快く受け入れたりはしない。町に出てからの稔もそうなった。子供時代に封じた山神も、今となっては何故あの時怖いと思わなかったのか、まともに存在を信じたのか、不思議で仕方がない。
 裏町近くの支部に詰めるようになってから、最近は宿舎にもろくに帰っていない。恐らくはその疲れから、妙なことばかりを思い出す。
 そばに置いたままの冷めたコーヒーを手に取り、寝ぼけ眼を擦りながら口をつける。稔はコーヒーに砂糖を多めに入れる。咥内をくすぐる甘さにほっと息が漏れた。
 ほさほさと乱れた黒髪。どことなく幼い光の残る黒瞳。薄暗い部屋でマグカップを大切そうに持つ姿は、年に似合わず子供のようだった。
(あの犬、かろうとか言ったっけ。結構好きだったんだよな)
 夢の続き。あの後、巨狼は腰を銜えて稔を強引に森の奥へ連れ去った。特に何という理由もなく、狼に連れられて山中を延々と歩き回った記憶がある。
 途中疲れてへたると、猫の子のように襟首を銜えられたり、あの大きな背に乗せられたりした。山神について、綾瀬の昔話などを聞きながら夜を二つ数え、三日目にやっと開放された。
 山神と名乗った狼に、正直あの時の稔は魅せられた。自分より遥かに存在が大きい、絶対的な何かを持った一族の守護者。
 喋る動物というのも気になどならない。吸い込まれるような、包み込まれているような感覚が心地よかった。あれほどの安心感は味わったことがない。
 稔は出来ることならそばにいて欲しいと彼に願った。だが、綾瀬はもう守護を与えるに相応しい一族ではなくなったと、本人にはっきり断られてしまった。
 帰される時も、家が見えてはしゃいでいる隙に音もなく消え去っていた。それが悲しくて、幼かった稔は泣いて呼んだのだが、結局二度目はなかった。
 家では狼の話が両親によって禁じられ、山神を信仰してきた一族の大人によってそれは否定された。兄からも夢でも見たんだろうと冷たく言われ、稔は酷く傷付いた。
 あれ以来、山神・日狼のことは口に出さないように、考えないようにしてきた。口に出さなければ、知られなければ変人の扱いは受けない。最後に御守りだと渡された首飾りも、今は何処にあるか分からない。記憶を封じて忘れてしまったので、思い返すこともなかった。
 そんな状態だったのに、三日も続けて同じ夢を見るのには訳があるのだろうか。疲れとは別の理由を考えるがそれらしいものは思い当たらない。
 カップを抱えたまま、稔は首を傾げる。黒い液体には波紋が浮かぶ。
(何か、呼ばれてる気がする。守護は終りだとか言ったのに、用でもあるのかな。家で何かあったとか)
 大人になって、世間の常識をある程度分かっていたのだが、思い出してしまうとやはり、あの時のことは信じない訳にはいかなかった。夢でも幻でもない山神の存在。家を出たとはいえ、綾瀬の者である以上、あの狼との縁は消えることがない。そういうことだろうか。
「守護は終い」と言った、あの低く耳に馴染む声が頭にこだまする。終りを言い渡されたのに、何故今になって不思議なことが連発するのだろう。
(でも、綾瀬の守護は終りって言われた後に色々連れ回されたんだよなぁ。矛盾してるというか……あ、あの時の山葡萄は旨かった。食いに来いってことかな)
 冷たいコーヒーを飲み干して、再びソファに倒れる。
 朝とはいえ、まだ仕事の時間ではない。横を向いて膝を抱えて、ぼんやりとあの三日間を思い出す。全てが古すぎるので途切れ途切れにしかならない。
 うまく振り返ることが出来ずに頭を抱えていると、開きっ放しのドアの向こう、廊下から足音が近付いてきた。どうせソファの背が邪魔で見えない。稔は気に留めずに過去に浸った。
(あの犬、喋り方は爺さんだった。で、でかくて黒くて、光の加減で赤くなって、目は金で。……。綺麗だったなぁ。抱きつくとふっさふっさで、和むんだ)
「こら綾瀬。どーゆー訳か、お前の落し物が俺のトコに届いたぜ? こんなもん持ってたのか?」
「は? ……あ、哲さん? お早うございます」
 思考を中断させる声が振ってくる。足音の主は稔に用があったらしい。
 振り返っても見えないので、稔はただ上を見上げる。哲さんと呼ばれた方もソファの背から覗き込んできた。そして、手にぶら下げた物を黒い瞳の前で揺らす。
「……? これ、俺のじゃな……くない」
 呆然と、目を丸くして稔は呟く。
 薄い光を吸って輝くそれ。赤黒い炎を封じたような五角柱の紅水晶だった。その左右には、小さな牙にも見える白銀の物体が揺れている。革紐に輝石を吊ったペンダントだ。
 これは、
「……日狼がくれたやつ。え、これどこでっ?」
 ひょこりと起き上がって哲の瞳を覗き込む。稔の反応に驚いているが、哲は困ったように頬を掻き、「さぁ?」と答えた。
 ソファの背に両手を乗せた稔を子供扱いし、哲は首飾りを付けてやる。照れたように稔は嫌がるが、職場の上司に逆らい切ることは出来ない。結局は大人しくなる。
「出所は分からないな。事務所に寄ったら、俺・宛に今朝届いていたらしいぜ? 中にお前の落し物だっていうメモがあったんだ。はっきり言って迷惑」
 言葉とは裏腹に、哲は寝癖で立った黒髪を撫でると笑いながら立ち去っていった。朗らかな、のんびりとしたその背に、覚えはないものの一応謝罪する。
 首に下げられたペンダントを、稔は頑張って覗き込んだ。ソファで正座をしたまま、ありえない現象に呆然としてしまう。
 山神が別れ際に持たせてくれた御守り。家を出る時に引き出しから探して宿舎には持ってきていた。だが、そこからどこに入れたのかを忘れ、なくしたとばかり思っていた。
(何で出てきたんだ……? 宿舎にあったはずなのに、外から送られてきたって)
 立ち上がってカーテンを開ける。窓の外では不良学生達が、笑いながら学校とは反対の方向へ歩いていた。朝から活動しているだけまともなのか、朝帰りの途中なのか。
 注意すべき立場にはあるが、今の稔にとってはどうでもいいことだ。明るい朝日を吸って赤が煌く。
 深みのある赤と絶対の黒が渦を巻いたような、しかし、それがはっきりとは見えない五つの角を持つ輝石。小指の半分ほどの長さがある。
 両脇には光を跳ね返す、紅水晶を包むよう内側を向いた牙が吊るされている。あの巨狼の牙にしては小さいが、ただのビーズとは明らかに違う。獣が餌を狩るためのものだ。
 長い間手に持たなかったものに、そっと優しく触れる。冷たい感触と指に刺さりそうな牙の感じ。山神に渡された時に一度手を刺したが、あの時と変わらない鋭さがあった。
 稔は牙の曲線をなぞりながら、小さく首を傾げる。
(やっぱり、呼ばれてる気がする。御守りをほったらかしにしてて怒ってるのかな? それとも……)
 何かを思い立ったように、くるりと窓に背を向ける。そのまま勢い良く走ってソファを飛び越えた。膝を曲げて着地は静かに、曲げた足をばねに床を蹴る。
 開けっ放しのドアの壁を掴んで勢いをそのままに、廊下を右へ折れる。あののんびりさならそう遠くへは行っていないだろう。角を二つ曲がれば、軽い雲のような灰色が目に入る。
「哲さ〜んっ!」
 大声に振り返った薄水の瞳には驚きがある。一生懸命に駆け寄る稔に「どうした?」と呆れたような声が掛けられた。
 両の手で拳を握る。自分よりも背が高く、見上げなければならなかったが、穏やかなその瞳に、稔は必死の顔でとあるお願いをする。
「休み下さいっ。実家に帰りますっ」
「……そうか。分かったから、ちゃんと髪とかせよ? お坊ちゃん」
 兄か父親のような、しかし、実際のそれらに受けたことがない注意をされる。苦笑交じりによしよしと頭を撫でられ、子供扱いに歳若い青年は赤面した。
 その後すぐ、支部の近くにある宿舎へと走って帰った。途中、この赤い首飾りが目立っていたようで、渡せと何人かに絡まれた。しかし、名家綾瀬の子とはいえ、町に出てからの稔は喧嘩に強くなっている。
 警官にあるまじき行為ではあったが、手と足で彼らを地に沈め黙らせた。町ではある種当たり前の対応だ。この強さが山神の守護の力だというのなら、絡まれない方に力を使ってくれと勝手なことを考える。
(まぁいいけどさ。着いたら直接山に行こう。家に帰ると煩いし)
 簡単に物をカバンへ突っ込んで宿舎を出る。たっぷりしたズボンにシャツ。時期的に早いが、緩く巻いたマフラー。斜めに肩掛けカバンを背負って、ぼろぼろの単車に跨る。
 これから半日かけて綾瀬の統括する村まで走る。当主になり冷たさが増した兄の顔は見たくない。山へ行って、山神と名乗った狼にだけ、何の用があるのかを聞くつもりだ。
 首に揺れる赤い輝石。もはや、これはあの巨狼の呼びかけとしか思えなかった。

「か〜ろ〜お〜っ! 稔だぞ〜! 俺のこと呼んだりした〜?」
 森の入り口に単車を置き身軽になった稔は、横掛けのカバンを揺らして長い階段を登った。木材で簡単に作られた段は登りにくいことこの上ない。
 覚えのある道を少し行き、前回山神と遭遇した場所よりも少し奥まで来ていた。だが、太い木々が立ち並ぶ山には動く者がいない。
 ついには山神の社に着いてしまい、大声で叫ぶことになる。誰もいないが、はたから見ればかなりの不信人物だし、もしかしたら響いて家にまで届いてしまっているかもしれない。それでも、山神・日狼を呼び出したかった。
 午後とはいえ、昼間にもかかわらず森は薄暗い。社を中心に探し回ったが、足が痛くなるだけで見付けられない。まぁ、相手が山神なら歩いて見付かる方が不思議ではある。
 ここに来るまでに髪は梳いてあったのだが、山風に散らされてほさほさな黒髪に戻ってしまった。社の段に座って、手ぐしで軽く髪を撫でる。
(どうしようかなぁ。このまま会えないと馬鹿じゃないか)
 稔は年甲斐もなくムスっとむくれた。家で適当に物を詰めたカバンから、細長いチョコの芯が入った菓子を出して銜える。その様はまさに拗ねた子供だ。
 辺りを見回しながら、足を遊ばせた。木の葉がひらりひらりと落ちてくる。
「ちぅ」
「ん? ……わ、鼠だ? これが欲しい?」
 いつの間にやら、稔が座っていた段の一つ上に白い鼠がいた。しっぽで体を支えながら、頂戴とでも言うように前足を上げている。
 その可愛らしい両の手に、小さく折った菓子を持たせてやる。怖がりもせずに、白鼠はチョコ入りの棒菓子を齧りだした。
 稔は小さな鼠ににこにこと微笑みながら、このまま日狼が現れなかったらどうしようかと頭を捻る。無意識に、指が首飾りに伸びていた。まるで愛するの恋人に待たされているような、一途な少女にも似た曇った顔になる。
 心の中では、この呼びかけを喜んでいた。記憶を封印していたことで、山神に魅せられていた自分も忘れていた。だが、本当は一緒にいたいと一度は願っていたのだ。あの三日間の内に、稔は山神の物になっていたも同然だった。
 あの時、側にいることを断られたのに、向こうから呼んでくれている。同じ夢を見て、それに重なって不思議なことが起こって。呼ばれていると思いたかった。
 ただの偶然だったのか。勘違いだったのか。
「……日狼、呼んでたんじゃないのかなぁ」
 返答を求めない問いと溜め息が零れる。こちらが願っても、山神は聞き入れなかった。今回も気まぐれな悪戯だったのか。
「……確かに呼んだが? 三日も無視しおって、この若造が」
 すぐ側からの答え。相手を皮肉ったような、意地悪な声だった。だが、稔は呼んでいたと言われ無邪気に笑い出す。
「そうっ? やっぱり呼んでくれてたんだっ? 綾瀬の守護は終りとか言われたし、あの時置いていかれたから、嫌われたのかと思ってた。色々思い出したら急に会いたくなってさ……あ。……。三日も無視して? 三日……も」
 声はか細くなり、終いには消え失せる。遠く、木の間を見ていた黒瞳がゆっくりと、腰の横へと引き戻された。そこにいるのは棒菓子を齧る鼠だ。
 意味もなく、口を開け閉めして見ている間にそれは短くなる。齧り終わって手を器用に舐めると、白鼠は小さな金色の瞳で稔を見上げてきた。無言で固まる彼を置いて、鼠はチョロチョロと戸の隙間から社の中に入っていく。
 稔は冷や汗を滝のように流し、その小さな背を見送る。子供の頃ならこの奇怪な現象もすんなりと受け入れられただろう。しかし、彼が過ごした町での数年が、喋る動物は確実におかしいと訴える。
 彼の内心での葛藤をよそに、社の戸が鈍い音と共に開く。
「嫌いになどなっておらぬぞ? 綾瀬の守護とお前への守護は違うからのぅ。それにしても、言うてくれるわい。わしに会いたくなったとは……愛い奴よ」
 落ち着いた、深く重みのある声。からかうような色があった。
 開いた戸に背を預け、稔を意味深な瞳で見下ろす者。それは、稔がどこか期待も籠めて想像していた、あの巨大な狼ではなかった。
「へ……誰?」
「ほう……いい度胸じゃ。覚悟は良いか?」
 口の端を上げ、こめかみを微かにひく付かせるのはよくよく整った顔の男だ。長身で、ゆったりとした、それでいて線が分かる異国の衣装を纏った青年、つまりは人間だった。
 間抜け顔を見下す、長く世界を見つめてきただろう黄金の瞳。落ちる光によって赤くも見える黒色の蓬髪。組んだ腕は細く、指先に並ぶ軽く尖った爪は黒曜石のよう。偉そうな物言いだが、人形めいて美しい顔立ちがそれを嫌味にさせない。
 覚悟は良いかと聞かれ、稔は反射的に「あ、はい」と答えてしまう。男の美貌が嬉しげな微笑みを浮かべた。黄金は悪戯な光を放つ。
「『さて、どうしてくれようか』のぅ? 会いたいと願った者に玩ばれるか?」
「あ!? 日狼かっ!? ……って何だよっ……っ」
 どう見ても同性ではあったが、その容姿には照れずにいられない。音もなく側へ詰め寄られ、稔は慌てて後退る。大して幅のない社の段はすぐに途切れ、あっけなく後ろへバランスを崩した。
「〜〜〜いったっ……くっそぅ」
「お〜お〜馬鹿丸出しじゃな、阿呆。あの頃より多少陽気になったようだが、馬鹿は変わらんわ」
 けたけたと上から意地悪く笑われる。腰を擦りながら見上げると、口はにやりと笑みを刻んだまま、しかし、どこか憂いたような瞳が稔を見つめていた。
 その表情に見入ってしまう。いや、表情だけではない。あの時、子供の時に感じた包まれるような心地よさ、力の大きさに魅入られた。
 ゆったりとした動きで、人型の山神は段を降りる。風が凪ぎ、音が消える。
 口をぽかんと開けたまま、稔は呆けたように男を見る。その顔に白く細い指が伸びる。もはや照れて逃げるなどという動作も取れない稔は、されるがままに頬を撫でられる。
 黄金の瞳は大人しい稔に満足したようだ。細められ、それでも黒瞳を逃さない。
「我が一族の者に触れるなど、久しきことじゃ。確かにわしはお前を呼んだ。呼んだが、あれだけでは分からぬようなのでこうして思い出させてやったのよ」
 頬から首へ、その下、マフラーを退け軽くはだけたシャツの胸元へ。黒曜に飾られた白い人差し指は、ゆっくりと肌をなぞってゆく。
 たどり着いた首飾りに指を絡め、男は光る紅水晶に口付けた。
 不思議な色合いの髪が顎をくすぐる。稔は訳もなく、ほぼ衝動的に赤へ顔を埋めた。幼い頃、狼の首に抱きついた時と同じように。
 柔らかな髪が肌に心地よい。この動作だけで、心は平静を取り戻す。
「随分と馴れ馴れしいのぅ稔」
 座り込んだ稔の足にももたれたまま、桜の唇は不満を紡ぐ。だが、見上げてくるその瞳は嬉しげだ。
 なんとも言いがたい色香に、これは本当に男か? と稔は内心で自分に疑問を投げかける。それを隠して口から出るのは、拗ねたような短い言葉。表情も恐らく子供のそれだろう。
「……だって」
 くつくつと笑う声はいかにも楽しげだ。逃れようのない鎖で捉えた玩具が、望んだままの表情を見せる。
 山神はこの反応がいたくお気に召したようだ。髪を散らし彼は稔に甘えだす。犬が主人の膝に顔を摺り寄せるようだった。
 稔はこの意外な行動に戸惑う。山神を相手に、よしよしなどと頭を撫でてはやれない。
 この困った表情を見もせずに、日狼は至福の溜め息を吐いた。
「何か用があったんだろ? 何だよ?」
 やっと呟いた一言。閉じられていた瞳が薄っすらと開き、稔の黒い瞳を見上げる。口にはまだ満足げな微笑みが残っている。
「近く、お前に災いが降りかかると視た。星と風がわしに告げたのじゃ。綾瀬の最後と決めたお前が、わしの手元を離れ目の届かぬところにおるなど、救いようがなかろう? だから、呼び戻したのじゃ」
「何? 災い? 呪われるとか?」
「阿呆ぅ。違うわい」
 呆れたように、しかし笑みを絶やさずに日狼は言う。大切な者が自分の側、絶対の守護下にあることで安心しているのだろう。嫌そうな顔をする稔にも笑みは深まる。
 稔は初めて山神と会った時に、色々な話をされていた。本人はもう忘れているだろうが、その話の一つにこんなものがあった。
『最後、気に入った者が現れたらそれに全てを注ぐ。綾瀬への守護はそれで終わらせる。そう決めてから、やっと気に入った者が手元にやってきた。今まで守護を与えても、決して寄せ付けなかった人間を側に置く。山神・日狼の力を一身に受けるのは稔が最初で最後である』
 気に入った理由は知らされなかった。神の気まぐれといえばそれで終わりだ。だが、綾瀬が始まって以来、誰よりも稔は山神に愛されていた。
 自覚がなかった、記憶を自ら封じてしまっていた。そのせいもあって、稔は山神の恩恵をこの山に置き去りにしていたのだ。
 稔が家を出た後も、日狼は彼を見てきたのだろう。今回、見ているだけではどうすることも出来ない何かが起こることを察知して、山神は自分の庇護者を呼び戻した。
 稔は山神の手回しに気付いているのかいないのか、「災い」の一点に興味を示した。日狼が偉そうな態度を一瞬崩したせいだろう。元より柔軟性のある稔は、子供の時と同じように山神の存在、不思議な者を受け入れつつある。
 久し振りの再会だが、もはや狼の姿でないことも気にはならない。きっと、色々な姿になれるんだ。言葉にはしないが、勝手に山神だからと納得してしまう。
「何か、望まぬ方向へ身を置くことになる。お前の命にまで危険が及ぶような」
「でも、俺は今、町を守るような仕事してるから、そういうことも……」
「ああ、知っておる。じゃがなぁ、納得いかぬのよ。お前はわしのものじゃ。人間如きに手出しを受けとうない」
「わしのもの」扱いには気付かない様子だ。稔は人間如き? と首を傾げた。
 守護を与えた一族の子、稔は自分のものである。それを当然とした日狼。機嫌の悪くなった黄金は稔を透かし、遥かな空を睨んだ。
「あぁ。人の手が関わる。人の短き寿命とやらにも届かぬというのに、まだ少しも構っておらんのに。……そうじゃ。この阿呆はわしを置いて外へ出おった。許せぬな。神罰を下すか」
「げっ何だそれっ? ヤダっ!」
 御機嫌斜め。男の美貌にはその一言で形容しきれる表情が浮かんだ。白い手が稔の頬に伸び、その後ろ、首筋を捕らえる。そのまま顔を引き寄せた。
 流石にただの人間とは力が違う。喧嘩慣れした程度では山神には敵わない。稔は逃げようと必死だが、組んだ足の上に乗られたまま、さらに、どうあっても逃がさないと腰にまで腕を回されている。日狼の肩を必死に押し返すも意味がなかった。
 じたばたと、経験のない神罰に稔は怯える。それを、まるで楽しむように日狼は彼を観察する。
 瞳の中、心の奥までを舐めるような視線に、嫌でも頬は朱を帯びる。体勢的には日狼が稔を見上げているのだが、主導権は明らかに前者にあった。
「稔よ、嫌ではあるまい?」
「イーヤーダっ! 何だよ神罰ってっ!」
 ぎゃんぎゃん騒ぐ青年に、男は可愛らしく首を傾げる。そして、獲物を両手で捉えたまま不真面目な思案顔になった。
 紡がれる言葉は、稔をいたぶっているようにしか聞こえない。
「そうじゃなぁ。何がいいだろうか。わしが望むのは……」
「軽めでっ。平手打ち二回くらいでっ」
「何じゃそれは? つまらん」
「つまったら困るのっ!」
 物足りなげな顔に音速のツッコミが入る。山神は虚を突かれたようにきょとんと表情を固めた。その隙を稔は逃さない。
 体を捻って細腕の束縛から抜け出す。逃げた、と思った瞬間、唐突にバランスを崩した。うつ伏せたままの男が裾を引いたのだ。稔は完全に足を掬われた。
 青年はズベンと枯れ葉に顔から突っ込んだ。そのズボンを放さず、日狼は地に肘を着いた。その平に細い顎を乗せる。
「逃げられるとでも? 間抜け」
「日狼ってこんな酷かったっけ!? 子供の頃より扱いが酷くないか!?」
「可愛い可愛い稔に酷いことなど出来まいよ」
 顔を上げ、振り返りざまに「嘘吐けっ」と猛抗議。過去の自分は山神が大好きで仕方がなかった。だが、所詮過去は過去だ。こんな我が儘な山神がいてたまるか。
 今の稔の内心は、いまだ守護を与えてくれていることへの感謝、相変わらず魅せられている事実、我が儘に振り回され始めている自分と複雑なものになっていた。
 日狼の方は、子供時代に比べ、多彩な反抗してみせる稔が面白いようだ。キャンキャンと不平をもらす子犬のような、それでも嫌いだとは言ってこない自らの一族の子を、愛しい者に向ける眼差しで見つめる。
 その目に気付いたのか、稔はふいっとそっぽを向いてしまった。裾を握られたまま座り込んで、照れを隠すのに一番早く、そして分かりやすい行動を取る。本人に自覚はない。
「実は構って欲しかっただけじゃないのか?」
「ほぅ、守護の神を疑うか?」
 金眼からはからかいの消え、優しさが満ちる。問いに問いで返すと、むすっとして振り返る青年に微笑む。裾は放してやった。
「命に危険がとか、意味分かんないもん」
「構わぬ。少しの間、わしの元にいてくれればな」
「明日仕事。だから帰る」
「冷たいのぅ。命を捨てると?」
「……うん。生きてても目標とか夢とかないし、あの町にいると命の価値が分かんなくなるんだ。毎日職員が誰かいなくなるし、俺がいなくなっても親は気にしないだろうし。悲しいことなんてない。死が近すぎて、怖くもなくなったから」
 治安の乱れた町では日々、見る顔が変わっていく。昨日いた人間がいないこともある。国からも見離された町だ。そこではありえないほどに命は軽んじられ、警察の者でも例外はなかった。
 危険が付いて回る地域に無理をしている必要はない。だが、出そうとしない人間と出られない人間、出る気もない人間は多くいる。
 稔は出る気のない人間だ。帰る意味を持たない家、目的のない人生。ある種期待を込めてこの町に流れ着いたようなものだった。
 金色の瞳から逃げるように視線を落とす。鮮やかな銀杏の葉を摘んで、指先でくるくると回す。情けない奴と言われるならそれでもいいと、顔には諦めたような笑みがあった。
 これと決めてから十数年、目の届かないところへ離れて数年たつ。稔の成長と変貌に驚いているのか、それとも呆れているのか。山神は、端から見れば悲しい光を帯びた黒瞳を、下からぼんやりと覗き込む。
 着いていた肘を倒し、組んだ腕に顔を横に乗せる。うつ伏せに寝転んだ日狼は「そうか」と呟き、瞳を瞼に隠した。
 紅を含み始めた光に、髪は赤が濃くなる。銀杏の黄によく映える色だ。風が遠慮気味に髪を撫でてゆく。
「稔、お前の命はわしの全てじゃ。のぅなれば悲しい。わしに価値がなくなる」
 静かな言葉。黒髪が微かに揺れる。
「昔、わしには本当に守りたいと思うた奴がおった。奴を守り、奴が守ってやってくれと願った者を守る。これが生きる目的、わしの価値だった。じゃがなぁ、奴の面影が消えた綾瀬に、守る意味を見られなくなった。最後、お前を終いと決めた。それが今、ここにおる理由じゃ。生きるに意味が、目的が必要ならば探すとよい。ずっと、見付かるまで求めよ。側にはわしがおる。……頼むから、世界に埋もれてくれるな。もはや奴との約束だけがわしを動かしているのではない」
 寝言にも聞こえる小さな声。一族を守る山神ではなく、何か、稔のためだけにいる守護者のようだった。
 暖かささえ感じる優しい気に、青年の自傷的笑みは崩れてゆく。幼さの残る顔は悲しみに歪む。枯れ葉を捨て、静かに膝を抱えた。
「何で今かなぁ……もっと、早く……」
「悪かったのぅ。早くから側にいてやればよかった。そうすれば、辛い思いなどさせずに済んだのに。偉そうな物言いをする資格など、わしには欠片もない」
 薄っすらと開いた瞳。山神の姿が霞み、次に現れたのは稔の後ろだ。塞ぐ彼を、背から包み込む。
 神子の上に神が降り立ったような、一枚の絵にも似た風景。神の瞳には痛みが影を落としていた。
「怖がってはいけなかった。あの時から、わしの存在は重荷でしかなかったろぅ? 家族にも認められんようになって、外界に出る以外なかったのじゃな。お前をこんなにしたのはわしじゃ。お前が身内からあんな仕打ちを受けるなど、夢にも思わず帰してしまった……。独りになる原因を作り、お前はわしを憎んでいるだろうと勝手に判断していた。拒絶されるのには耐えられぬ。お前から逃げていた」
「俺は嫌いじゃなかった。綾瀬の子だから、俺が嫌われてると思った」
「そうか、すれ違ってしまったな。もぅ独りになどさせぬよ」
 きゅうっと、小さくなった稔を放すまいと日狼は力を籠める。黒いほさほさした髪に、今度は彼が頬を摺り寄せる。
 見て見ないふりをしていたものが崩された。忘れようとして、それでも何処かで自分が信じてきた山神。今は近くで触れることも可能な、信じられる、頼っても甘えても良い相手。それは欲しかった存在。
 独りだからと強がっていた、堪えていたもの。涙が堰を切る。
「日狼は、山神を信じてる奴を変だと思わない?」
「自己否定など、する訳がなかろうて」
「じゃあ、綾瀬の守護が終りでも、俺の側にはいてくれる? いなくなったら寂しいと思ってくれる?」
「無論じゃ」
「……独りじゃない?」
「あぁ、親にさえ甘えてこなかった分、嫌でもわしが甘やかしてやるわい」
 確かめるようにぽつぽつと呟かれる問い。一つ一つにはっきりと答え、掴み損ねた十数年を急ぎ足で取り戻す。
 信じるため、信じられるため。確実に、求め続けた相手を手にするため。
 子供をあやすように頭を優しく撫でる。日狼の言葉に、稔はくすぐったそうに小さく笑った。分からないほど微かな動きで頷き、甘えるように体重がかけられる。
 早い時期からあったチャンスを、日狼はことごとく無駄にしてきた。山神などと崇められようとも、隠しようのないこの弱さは自らがよく知っている。
 彼が独りになってゆくのを、どうして止めてやらなかったのか。稔が家を出ると言った時、何故彼を止めてやらなかったのか。……今、この子の側に自分はいてよいのだろうか。
 自問は音もなく重なってゆく。腕の中の暖かさに触れていることさえ、罪のような気がしてならない。
「日狼」
 小さな呼びかけに意識が引き戻される。見上げる黒瞳には赤髪の男が映っていた。長く望んでいたはずのもの。嬉しいはずなのに、痛みがあるのは何故か。
「友達というか、家族ができたというか……お父さんみたいだ」
「わしは仮にも山神なのだがなぁ。外見の年齢もお前とそう違うまい?」
「じゃあ、兄さん? ……兄さんっていうと冷たくてヒドイ人……」
「分かった分かった。何とでも呼ぶがいい」
 稔のげっそりとした嫌そうな顔。日狼の諦めたような、呆れたような苦笑。
 何を考えたところで過去は変わらない。悩み、耽る自分よりも、前向きな稔の方が遥かにそれを知っているようだった。
 あの日に一度交差した時間が再び交差し、絡まってゆく。
「町に帰るならば、わしも付いてゆくからの?」
「うわぁ、ホントに家族が増えた?」
 山神が山を離れて、果たして良いのだろうか。もはや、分かりきった答えは言うまでもない。良い悪いなど関係ないのだ。
 懐中から抜け出しはしゃぐ黒髪の青年に、黄金そのままの瞳が和んだ。最後と決めた彼に、どんな災いが降りかかるのか。正確にそれを視ることは出来ない。それでも、心配はあるが不安はない。
(どんなことが起ころうとも、もぅ側を離れたりはせぬ。死を司るかの神にも、こやつの命は譲らぬよ)
 異国の衣装を揺らし立ち上がる。側にいる彼が、動作一つに見惚れていることが嬉しい。固まっている稔も、麗しの山神に気に入られていることが誇らしい。意味深な微笑と素直な照れ笑いが出会う。
 日狼が両手を広げるに呼応して、旋風が黄を巻き上げた。山神が綾瀬を離れる。唯一の守護の子の元へ下る。誰かに宣告するように、黄は空高く昇る。
「……わ、綺麗」
「わしか?」
「え……あ、いや……えと」
「はいそうです」とも、「黙れナルシスト」とも言えない稔。代わりに、「そろそろ帰ろうよ」と呟いて彼の横に立つ。困り顔は地を見るだけだ。
 不自然な反応に追及はなく、日狼は大人しく稔に習うと社を離れた。長く居たはずのそこに未練は欠片もないようで、さっさと、稔を従えるかのように先を行く。
 全てにおいて譲ろうとはしない神。だが、偉そうな物言いも態度も、彼を飾るものにしか思えなかった。
 傾いた夕陽の中を、人型をとった神がゆく。その守護、愛情を一身に受けることとなった一人の青年が、斜め後ろから嬉しげに付いて歩く。
 災いから己の一族の子を守るという名目の下、山神の本心は何を求めているのか。明日からの生活に神が入り込むことで何が変わるのか。稔は、激動と呼ぶに相応しい毎日が訪れることをまだ知らない。

 山神・日狼と綾瀬稔の奇妙な二人組み。彼らは町に掃き溜められた悪を、この後の数ヶ月で狩り出してゆく。
 気まぐれに、周囲の者へ姿を見せる日狼。いたりいなかったりする美貌の男は、周りから稔の似ていない兄であるとも、その手の押しかけ愛人であるとも噂されることとなる。
 稔も不毛な噂に振り回され、神経をすり減らした。さらに、噂がまんざらでもない様子の日狼にも振り回され続けた。
 稔の苦労の日々、日狼の至福の日々。それらの話はいずれまたということで。悪しからず。

−終−


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